閑樂祕鍵

OTIVM HOMINEM HOMINEM FACIT

ラブライブ!において「論理性vsエモさ」論争はなぜ起こるか

先日、『ラブライブ!スーパースター!!』第7〜8話のストーリーに関して賛否が巻き起こった。私個人は今回のストーリーに関して基本的には否定的に見ているのだが、正直を言うと論争の中身よりも、論争が起こったということ自体について「またこのパターンか」と溜息をつきたくなった。それというのも、「ラブライブ!に論理性なんか要らない。局所的なエモさだけがあればそれでいいし、そういう楽しみ方こそがラブライブ!の正しい楽しみ方だ」という風潮と、それに異を唱える意見とが対立してきたという歴史は今に始まったことではなく、初代ラブライブ!の全盛期からずっと繰り広げられてきた光景だからだ。そして、スーパースター!!第7〜8話について勃発した論争はまさしくこのパターンを完全になぞる形で生じた現象だったと言える。

 

また、私は先日このブログに、スクスタ2ndシーズンのシナリオに対する批判記事を投稿したのだが、その際「論理性軽視の風潮が運営を調子づかせて、スクスタの炎上を引き起こしたのではないか?」というコメントが記事にいくつも寄せられた。こういったことから、ラブライブ!シリーズではそもそもなぜこのような論争が何年間も断続的に繰り返されるのか? ということについて、この数日間ずっと考えを巡らせていた。そこで本稿では、自分なりに少し考えてみたことを整理してみたいと思う。

 

さて、いきなり本稿のタイトルを否定するようで恐縮なのだが、そもそも「ラブライブ!のファンの一部には、エモさより論理性を重視する層が存在する」というのは本当なのだろうか? 例えば、高坂穂乃果が路上でいきなり歌い出したり、高海千歌たちがみかん畑の農業用モノレールに乗って内浦まで疾走したり、小原鞠莉が一生徒であるにも関わらず学校の理事長に就任したりと、論理的な説明を与えるのが難しい演出はラブライブ!において枚挙に暇がない。しかし、それらすべての論理的不自然さを気にするあまりラブライブ!の世界に感情移入できない、というような人は、そもそもラブライブ!のファンになるのは難しいのではないか。つまり、ファンのうち「論理性を重視している」とされる層というのは、論理性そのものを重視しているわけではないのではないかと思うのである。それに、そもそもフィクション作品における論理性は、あくまでもエモさを演出するための手段という側面が強い。そのため、エモさの重要性自体は、論理性を重視するファンだろうが軽視するファンだろうが、ほとんどのファンが同意するところだと思われる。

 

かねてよりラブライブ!シリーズは、「ストーリーの論理性とエモさのどちらを重視するか」で視聴者が分断されてきたと思われがちである。しかし私は、実はそうではなくて、「物語消費とデータベース消費のどちらを重視するか」による分断と見た方が正確なのではないかと思っている。では、物語消費とデータベース消費という対立軸によって、なぜ歴代シリーズを通してファンの間に多くの論争が生じてきたのだろうか。

 

それは、データベースを中心としつつ、物語消費をも同時に促すような仕掛けが作中に多く張り巡らされている、というのが『ラブライブ!』シリーズという作品の特徴だから。これが私の回答である。そして多くの論争の争点は結局、「物語消費で得られるエモさとデータベース消費で得られるエモさのどちらが本物のエモさか」という部分に帰着することになる。

 

「物語消費」「データベース消費」という用語については本稿では詳しく説明しないが、ネット上には優れた用語解説がいくつも転がっているので、適宜参照していただきたい(例えば、次のウェブページがわかりやすい:『物語消費からデータベース消費へ』)。しかしあえて簡単に言えば、「物語消費」とは、「作品の細部に散りばめられた一つ一つの演出を有機的に考察することで、その作品全体を統一する大きな世界観やコンセプト、物語性、メッセージ性を読み取る」という消費形態のことである。一方、「データベース消費」とは、「大きな世界観や物語性を読み取るのではなく、記号、あるいは記号の組合せ(=データベース)のみを作品内の個々の演出に見出していく」という消費形態のことである。例えばラブライブ!で言えば、ダンスパートでキャラが着ている衣装はこういうところが可愛いとか、このキャラとこのキャラのカップリングは(百合の文脈で)尊いとか、そういう個別具体的な消費の仕方はデータベース消費だと言える(衣装の具体的特徴や百合的解釈といったものは、ラブライブ!全体を統括する世界観・物語性とはそこまで深い結びつきのない、記号的表現である)。個々の演出から作品の背後にある「大きな物語」を読み取るのには、個々の演出どうしをうまく接合させる有機的な読解が必要となるため、物語消費は有機的消費であり、データベース消費は無機的読解であると言い換えてもおおよそは問題ないだろう。

 

キャラの細かなセリフや仕草、ダンスパートの些細な振付やカメラワークなどは、それ自体で何かしらのエモさを演出することが可能である。一方、それらの細かな演出を手がかりに、ストーリーの背景にある「大きな物語」を読み取ることができる。こういう作品づくりが、ラブライブ!では頻繁になされている。例えば、高海千歌が青い羽根を掴むのは何らかの大きな成長を遂げたことの暗示であり、この演出自体によってストーリーを「エモく」感じることは可能である。一方、青い羽根の元ネタであるメーテルリンクの『青い鳥』のテーマがサンシャイン!!全体のテーマと共通していることに着目すれば、より深い「エモ」に到達できる。この2つの階層の消費形態は、それぞれデータベース消費と物語消費に対応していると言えるであろう。

 

このように、細かな演出によるエモさと、それを介して得られる大きな物語によるエモさは、ラブライブ!において密接かつ頻繁に結合している。しかし、ラブライブ!の作中の随所に張り巡らされた細かな演出の多さ、そしてインパクトに圧倒されることで、「大きな物語」を読み取らなくても視聴者は容易にエモさを得られてしまうのである。よく、ラブライブ!のファンが作品のストーリーに関して「考えるな、感じろ」などと語っているのを見かけることがあるが、まさにこれは「大きな物語」を深く読み取らないことによって得られるエモさだと言うことができる。つまりラブライブ!における「考えるな、感じろ」論者は、論理性を軽視しているからエモさを得られるというよりは、「大きな物語」を深く読み取らないからこそエモさを得ることができているのだ。ここにおいて、論理性の軽視は、原因というよりは結果なのである。

 

同様に、「論理性を重視する」とされるファン層にとっても、論理性を重視するのは目的ではなく手段に過ぎない。より丁寧に言い換えれば、個々の演出どうしと「大きな物語性」との有機的連関が実を結ぶために最低限必要な論理性のみを重視するという態度が、彼らが「論理性を重視する」と評される所以となっているのだ。つまり「論理性重視」派が本当に重視しているのは論理性ではなく物語性であり、論理性は物語性に必然的に付随する一要素に過ぎないのである。すなわち彼らは「論理性重視」派ではなく、「物語消費」型の消費者というわけだ。高坂穂乃果が路上でいきなり歌い始めても気にならないのに、宮下愛が妨害に苦しむ同好会に対して無神経な発言を繰り返すのを気にするのは、そういう論理性のカテゴリの違いに起因していると考えられる。

 

とはいえ、「物語消費」派こそが正しいとか、逆に「データベース消費」派こそが正しいとかいう議論に帰着させると、それこそ他人の楽しみ方にケチをつけるだけの不毛な水かけ論になってしまう。そこで私が主張したいのは、本質的な問題は消費者の側ではなく、運営の側にこそあるということだ。どういうことかと言えば、それは運営が「データベース消費」派に過剰に肩入れしていることが問題なのである。物語消費よりデータベース消費の方が、「大きな物語」を読み取る必要が少ないぶん容易で手軽なので、後者重視の意見の方がファンからの支持を集めやすく、運営もその多数意見に便乗する形で物語消費を軽視した作品づくりに傾斜しやすい。そしてその結果として、ストーリーから論理性・整合性が失われることになる、というわけである。

 

事実、ラブライブ!はそんな風にして多くのファンを獲得してきたと言っても過言ではない。また運営にとって、物語消費によるエモさはデータベース消費によるエモさを喚起するための道具として使えるので、「大きな物語」(例えば「今が最高」や「みんなで叶える」等の根本的思想)自体を廃棄することはしない。例えば、ストーリー自体がどんなに薄っぺらくても、ラストで「みんなで叶えた!」「結ばれる想い!」とか作品全体のテーマっぽいことを言わせておけば、曖昧に視聴者のエモさを喚起できてしまう。ここでは、「大きな物語」は細かな演出を魅せるための道具でしかなく、まともな物語になっている必要はないのである。だからこそ運営は大きな物語を途中で廃棄せず温存し続け、かつ、それにも関わらず物語消費型のファンを軽視し続けている。ここに、ラブライブ!最大の欺瞞が伏在している。この欺瞞により、ライト層を含め多くのファンを呼び寄せることができ、運営とファンの共犯関係が成立する。

 

つまりラブライブ!では物語消費とデータベース消費のどちらがより正しいか、という従来の論争における根本的争点は、実のところ皮相的な論点に過ぎない。物語消費されることを明確な前提として作品を創造しておきながら、最終的に物語消費が正しくない消費形態であるかのような形に作品を落とし込んでいる、という欺瞞的構造こそがラブライブ!のストーリー構造における真の問題なのである。

 

そして、そのような運営の欺瞞的戦略が暴走した結果起こったのが、スクスタをめぐって生じたかつてないほどのファン同士の対立だった。先日このブログで指摘した(ファンの分断を生じたせた鍵としての)作品世界の倫理規範も、作品の世界観(大きな物語)を反映した重要な要素の一つになっていると言えるし、運営が「大きな物語」を軽視する態度を先鋭化させたことによって作品世界の倫理規範の破綻という重大な結果を招いてしまったのだ。

 

運営の欺瞞が欺瞞のまま機能していれば、薄っぺらいエモさだけでファンを唸らせられるというメリットを享受できる。しかし欺瞞が暴走して正常な機能を失うと、ストーリーを相当好意的に解釈しない限り、薄っぺらいエモさですらもファンを感動させることは難しくなる。その結果、スクスタ2ndシーズンのような炎上が起こったのである。

 

実は、上で指摘したような欺瞞的構造そのものはラブライブ!に限って見られるものではない。似たような議論は他のあらゆる作品においてしばしば起こっているし、ファン同士の分断も日常的に起きている。ただしラブライブ!の場合、そのような類の論争が他作品に比べてあまりにも目立った形で頻発しているような印象を受ける。ではなぜラブライブ!ばかりこのような構造が浮き彫りになりがちなのかというと、もともとラブライブ!はデータベース消費型の作品として設計されたという歴史的経緯が大きいのではないか、と私は考えている。

 

そもそもラブライブ!というコンテンツは、電撃 G's magazine、Lantisサンライズによるメディアミックス作品であり、同じアイドルキャラも各媒体ごとに極めて多様な描かれ方がなされるのが特徴である。そしてプロジェクト発足からまもない頃に、それらの媒体の「中心」と言うべきコンテンツが存在したかといえば微妙なところだ。G's magazine での連載やシングルCDのMV、ドラマパートといったコンテンツは、内容として濃いものもあるとはいえいずれもストーリーとしては断片的なエピソードに留まっている。原案を務める公野櫻子氏が監修しているコミック版『ラブライブ!』(2011年連載開始)ではμ'sの結成物語が初めて本格的に描かれたものの、その連載ペースは非常に遅い。9人が加入してようやくグループとしての本格的活動が始まったと思ったら長期休載が何度も挟まれ、現在は2017年の単行本5巻発売を最後に休載の状態となっている。このように、プロジェクト初期のラブライブ!は、ほとんどデータベース消費型のコンテンツとして設計されているのである。

 

ところが、2013年のTVアニメ版の放送スタートとともにその状況は一変する。京極監督と花田氏の手によって芯の通った一つの物語が築き上げられたことにより、あちこちに散らばっているμ'sの断片的なエピソードがTVアニメを中心として回り始めるようになったのだ。そして何と言っても、「みんなで叶える物語」という極めて抽象的なスローガンを作品世界の物語の次元に落とし込んだり、「いまが最高!」という思想を明示的に打ち出したりと、TVアニメがストーリーに物語性を与えたということの意義は特筆されるべきである。これはもちろん良いことには間違いないのだが、他方で、物語性をごまかさずに描き切らなくてはならないという重責が制作スタッフに課せられることにもなった。ところが実際には、初代のラブライブ!からサンシャイン!!、そしてスーパースター!!にかけて、物語性のごまかしは散々ファンによって指摘されてきたというのは周知の通りである。

 

物語消費型の要素がコンテンツに盛り込まれるようになった一方で、データベース消費型のコンテンツという出自も影響して、データベース消費を強く促す仕掛けはTVアニメの内外に色濃く残り続けることになった。例えばTVアニメのなかではミュージカル風の演出やコミカルな映像表現が随所に採り入れられ、ストーリーを深く考えずとも映像や音楽だけで視聴者がカジュアルに楽しめるような工夫が凝らされている。TVアニメ以外では、従来のような G's magazine の連載やシングルCDの発売が続いたのに加えてスクフェスもリリースされ、大量の断片的エピソードが続々と供給されることになった。かくして、ラブライブ!はデータベース消費型の方向性に立脚しつつも、物語消費型のコンテンツとしても深く楽しめる作品に成長したのである。もちろんデータベース消費型と物語消費型という二重の販売戦略は他作品にも幅広く見られるものだが、ラブライブ!の場合はその2つの傾向が双方とも重厚に練られており、かつ、データベース消費型の方により比重が置かれているという特徴を持っているのだ。

 

作品全体としてデータベース消費型の方針に重点が置かれながらも物語消費型の要素も取り込まれると、「ファンの皆はどっちかといえばデータベース消費を求めているんだし、大きな物語よりもデータベース消費をしやすいような作品づくりをしていこう」という意識が運営に働きやすくなる。その結果として、上に述べたような欺瞞的構造が他作品以上に浮き彫りになってくる。この数日間の思索の結果、私はそう考えるようになった。

 

物語消費型のファンが運営に対して不満を口にすると、データベース消費型のファンからは「お前の楽しみ方を押し付けるな」などと苦情が飛んでくるのが、もはや「お約束」になっている。しかし運営が物語消費型のファンを満足させる必要がないと言うのであれば、そもそも2013年のTVアニメの時点で重厚な物語性を与えたりしなければよかっただけの話であり、花田氏が最初のシナリオ会議でいみじくも提案したように、女の子どうしが「キャッキャウフフ」するだけの脳死アニメを作っておけばよかったのである。その選択肢を取らなかった以上、物語性が軽視されたストーリーに対してファンから不満が噴出するのは当たり前のことでしかない。

 

ちなみに大きな物語をデータベースの道具として利用するシナリオづくりは花田氏の得意技であり、ラブライブ!では諸刃の剣でもある。だからこそ監督やプロデューサーは花田氏の悪い癖を修正しつつ、良い部分を活かす必要があるのだが、欺瞞的構造の誘惑に唆されると、その悪い癖はしばしば見過ごされてしまう。このような事情が、サンシャイン!!の2期7話やスーパースター!!の7〜8話などにおいて起こったことの背景としてあるのではないか? と仮説を立てているというわけである。

 

そもそも、(語弊を恐れずに言えば)データベース消費によるエモさを演出することは大して難しくないので、同ジャンルの他作品でも当然のように行われている。だから物語消費によるエモさを軽視し続ければ、ファンにデータベース消費を促す「だけ」の、「平凡」な作品として世間に認知されることになる。そうなれば、短期的にはデータベース消費型のファンを多く獲得できてコンテンツを維持できても、長期的なファン獲得という点ではむしろマイナス要因になり得るのではないだろうか。

 

とはいえ、データベースを中心として物語消費型の戦略をとることの危うさばかり強調してきたが、これは本来、ラブライブ!の強みでもあるということもまた改めて強調しておかねばならない。2013年以来この戦略をとり続けてきたからこそ、ラブライブ!はこれほどの人気を獲得してきたのだろうと思う。要は、この戦略が抱える欠点をうまくカバーすれば、ラブライブ!はより素晴らしいコンテンツとして世間に注目されることになる。そのためには、データベースを売り出すための道具として「大きな物語」を利用するのではなく、「大きな物語」とデータベースとの間の調和を意識すること。これこそが、ラブライブ!というコンテンツが健全な発展を遂げるために運営に求められるメルクマールとなるのではないかと考える。

 

以上、スクスタのメインストーリーにまつわる騒動に引き続き、スーパースター!!の第7〜8話にまつわる騒動を眺めながら何となく頭に浮かんだことを論述してみた。ラブライブ!の構造的問題を把握するというのは雲を掴むような話であり、だいぶ憶測に基づく考察になってしまったが、これもひとつの考え方として柔軟に受け取っていただければ幸いである。

 

 

【補遺】 「物語消費」「データベース消費」などの用語について

これらの概念(およびそれらの元ネタの文献である東浩紀動物化するポストモダン』)に対しては根強い批判がある。例えば、これらの概念は、オタクの消費行動を手がかりとしてポストモダン社会の行方を読み解くためのキーワードとして考案されているが、ポストモダン社会などというものを社会学的実体として構想するのが妥当なのか、そもそもオタクの消費行動の分析は的を射ているのか、などの批判が数多く投げかけられてきた。しかし、本稿で述べた内容は、当該文献の論旨に対する賛否など特定の評価に立脚したものではない。あくまでもラブライブ!考察の手がかりとして、軽い気持ちでアイデアを援用したに過ぎないということを申し添えておく。

 

【補遺】 「分かりやすいストーリー」志向とデータベース消費志向の類似性

今年、次の記事がツイッター上で話題になった。

極めて簡単に要約するなら、最近の人は「分かりやすいストーリー」を求める傾向が強い、という趣旨の論考である。倍速再生で作品を視聴する若者がどれほど多くいるのか、とか、そもそも倍速再生という慣習はVHSテープの頃からあったものではないのか、といったような様々なツッコミも少なからず寄せられている記事である。とはいえ、広告代理店や映画プロデューサーへの取材も踏まえており、(社会的な背景として何があるのかはともかくとして)「分かりやすいストーリー」が好まれる傾向にあるという近年の消費トレンド自体は確かにあるものなのだろうと思う。

 

上記の記事で紹介されていたような「分かりやすいストーリー」重視型の消費者は、本稿で散々紹介してきた「データベース消費」型の消費者の姿とかなりの部分重なるような印象を受ける。もちろん、本来の「物語消費・データベース消費」論とは理論的な文脈として少なからず相違があるので、簡単に両方の議論を同じものとして扱うことはできないかもしれない。とはいえ両者の間には無視できない類似性が横たわっているのもまた事実であろう。

 

さて前置きばかり長くなってしまったが、上記の記事において特に興味深かったのは、『逃げ恥』や『シン・エヴァ』といった人気作品が、「分かりやすいストーリー」を求める観客と「体系的視聴」を求める観客の双方にとって十分楽しむことのできる脚本をベースとしている、という考察である。つまり最近の消費トレンドを観察するならば、データベース消費型のファンと、物語消費型のファンの両方に大きく受け入れられる作品がヒットする傾向にある(もっとも、案外その傾向は昔から変わっていないのかもしれないが)。

 

これを踏まえると、やはり本稿で述べたようなラブライブ!の特徴、すなわちデータベース消費型を基本としながら物語消費をも可能にするようなコンテンツモデルは、本来であればヒット作としてのポテンシャルを持ったものであると考えられる。実際、ラブライブ!のストーリー・演出面における人気の秘訣は大体その点にあると考えてよいだろう。ところが、その特徴のデメリットが大きく目立ってしまっているのも現在のラブライブ!の状況なのだ。ラブライブ!運営は、多様な消費形態を持つ消費者に対してどのようにアプローチしていくかを、最新のヒット作品から貪欲に学びとっていくことが求められるのではないだろうか。