閑樂祕鍵

OTIVM HOMINEM HOMINEM FACIT

スクスタ2ndシーズンとは何だったのか——20章が遺した傷痕

この記事は、2020年11月に投稿した『スクスタ20章の感想と考察』という記事(以下、「前回の記事」と言うことにします)の続編です。前回の記事では、『ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル ALL STARS』(通称『スクスタ』)のメインストーリー第20章の何が問題だったのかということを批判的な立場から考察し、20章より先のストーリーでフォローが入ったとしてもシナリオの問題を立て直すのはかなり厳しいのではないか? という予想をしました。それでは、20章から始まったスクスタ2ndシーズンが30章をもって完結した今、前回の記事で指摘した様々な論点は解決したと言えるかどうか。また、そのような議論を踏まえて2ndシーズン全体を総括するとしたらどのようなことが言えるのか。今回の記事では、こういったテーマについて述べてみたいと思います。

 

というわけなのでこの記事は以前書いた記事の続編ではあるのですが、前回の記事をご覧になっていない方でもある程度は読み通していただけるように書いてみるつもりです(詳しい議論はさすがに省略しますので前回の記事を適宜参照してください)。それと、当たり前のことですがこの記事はスクスタ2ndシーズンのシナリオをすべて読み終えた方を対象に書いているので、2ndシーズンのネタバレを含んでいます。2ndシーズンのあらすじを復習したりもしないので、ご了承ください。

 

さて、まず結論から書いてしまいますが、やはりスクスタ2ndシーズンはシナリオに非常に大きな問題を抱えており、炎上もやむなしと言わざるを得ないというのが私の結論です。したがって、この記事は前回に引き続きスクスタ2ndシーズンに批判的な立場から書かれたものになるため、作品の批判は見たくないという方はこの先はご覧にならない方がよいかと思います。

 

さて、前回の記事では、スクスタ20章が抱えるシナリオ上の問題点を大きく次の2点に分けました:

 

  1. キャラや世界観の根本的な設定に致命的に抵触するほどの不自然な点、あるいは支離滅裂な点がストーリー上に多数存在する。
  2. ストーリーの方向性が『ラブライブ!』という作品のコンセプトに相応しくない。

 

具体的な問題点としては、次の10点を指摘しました:

 

  • 問題点1:不自然・支離滅裂な箇所
    • 問題点1 - 1:愛・果林が適性至上主義を黙認していること
    • 問題点1 - 2:愛・果林・栞子が「あなた」に連絡せず退部したこと
    • 問題点1 - 3:栞子の退部理由が明言されていないこと
    • 問題点1 - 4:愛・果林の同好会メンバーに対する配慮が全く無いこと
    • 問題点1 - 5:監視委員会という支離滅裂な組織を作ったこと
    • 問題点1 - 6:しずくの脱退理由が不明瞭、不自然であること
    • 問題点1 - 7:「あなた」が過去の教訓に学んでいないこと
  • 問題点2:作品のコンセプトに相応しくない
    • 問題点2 - 1:過剰なギスギス展開
    • 問題点2 - 2:キャラの好感度の過剰な低下
    • 問題点2 - 3:外国・異文化に対する偏見や無理解を助長する演出

そこで以下では、この10の論点のそれぞれに関して、2ndシーズン全体を通して問題が解決したかどうかを検討していくことにします。

 

 

問題点1 - 1:愛・果林が適性至上主義を黙認していること

 

スクスタ1stシーズンでは、栞子の振りかざす「適性至上主義」に同好会10人が一丸となって対抗し、適性よりも自分の「大好き」を尊重することの大切さを全員が確認して物語の幕が下りました。しかし20章ではランジュが同好会メンバーたちにスクールアイドルの「適性」を見出し、適性があるならプロ並みの最高の環境で練習すべきだと迫ってきました。このような提案に愛と果林が軽々しく乗っかるのは、1stシーズンで得たはずの学びが無視されているのではないか? というのが私が前回の記事で呈した疑問でした。

 

この点については、23章において描かれたような愛の「必死さ」で一定程度は説明できるような気がしました。すなわち、「たとえランジュが栞子と同じような適性至上主義をふりかざしてきたとしても、自分たちは同好会メンバーとの勝負に勝てるような実力を何としてでも身につけたい」というふうに愛が考え、1stシーズンで得た学びよりも自分の「負けず嫌い」な衝動を優先したのだと考えれば、愛の行動にも説明はつくと思います(果林の場合も、25章で描かれたような「必死さ」を軸として同様に考えることが可能でしょう)。

 

しかし、(果林はともかくとして、)そもそも23章で描かれた愛の「負けず嫌い」な一面はとても唐突なものでした。今までの愛はとにかく「楽しければそれでいい」「みんなと友達になれればそれでいい」という価値観を根本的なアイデンティティとして行動しており、それはメインストーリーでもキズナエピソードでも徹底して描写されていたはずです。それにも関わらず23章では突然、愛にはそれ以外の「負けず嫌い」で「ワガママ」な側面もあったのだという「設定」が新たに入ってきました。この演出については、「愛にはそんな一面もあったんだ!」と新たな素顔を見られたことを素直に喜ぶという肯定的な見方もあるでしょう。しかし、「そんな一面がある」というのなら、従来のストーリーに「そんな一面がある」ことを匂わせる伏線が多少は盛り込まれていて然るべきではないか? と思ってしまいました。特に愛の場合、「負けず嫌い」で「ワガママ」な一面とは正反対の、楽観主義的で弱者への慈愛に満ちた姿がキズナエピソードを中心に繰り返し強調して描かれてきただけに、伏線もなしにいきなり23章で描かれたような「新たな一面」を受け入れろと言われても、違和感なくすんなり受け入れるのは非常に難しいと思います。はっきり言うと、2ndシーズンで愛の移籍を正当化するために後付けで愛の「新たな一面」を追加しているかのような印象を抱かざるを得ませんでしたし、2ndシーズン以前と以後とで愛のキャラがブレまくっているように感じてしまいました。サスペンス色の強い作品では「このキャラには実はこんな裏の顔があった!」と何の前ぶれもなく判明してスリリングな展開を演出するということもあるので、百歩譲ってキャラのブレには目を瞑るとしても、『ラブライブ!』という作品でそういう演出をするのが相応しいのかはかなり疑問です(この点は問題点2と直接関わる問題ですが)。なお、愛の移籍という行動の是非についてはこの後もたびたび再論するつもりです。

 

というわけで、問題点 1 - 1 についてはそれ自体解消することはできたものの、その代わりに新たな違和感の種が出てきてしまったというのが私の抱いた感想です。

 

 

問題点1 - 2:愛・果林・栞子が「あなた」に連絡せず退部したこと

 

愛、果林、栞子の3名は、部長の「あなた」に一言も相談しないまま退部という極めて重大な決断をしており、これは「あなた」に心配をかけたくないなどという理由では正当化できず、「あなた」に対して極めて不義理な行動なのではないかと前回の記事で論じました。後の章で、「あなた」に相談せずに退部という決断に至った真っ当な理由が明らかになるのか注目しながら数ヶ月間シナリオを読み進めてきましたが、結局それらしい理由が明言されることはありませんでした。一見すると、28章で明かされた「愛・果林は「部」への体験入部だった」(つまり実は退部していなかった)という事実によって説明がつくようにも思いましたが、この「体験入部」設定に関しては別に大きな疑問点が生じたため判断を保留することにしました(この疑問点については「問題点2 - 2」で述べます)。

 

そもそも愛と果林に関しては同好会メンバーとの勝負で勝てるように実力をつけたいというのが主な移籍の動機でしたし、栞子に関してはランジュの孤立化を食い止めたいというのが主な動機でした。栞子の場合も「退部します」の一言もなしに退部する必要があったのかは疑問ですが、それでも同好会と「部」の対立が退部のきっかけになっているのは事実でしょうし、百歩譲って「あなた」に心配をかけたくないので連絡しなかったという理屈は認めるとしましょう。しかし、愛と果林の「実力をつけたい」という移籍理由は同好会と「部」との対立とは直接関係がないものであり、「もっと高みを目指すために違う場所でがんばりたい」と「あなた」に連絡すればそれで済む話なのではないでしょうか。

 

ですので結論としては、この問題点に関しても解決したとは言い難い状況であると考えます。

 

 

問題点1 - 3:栞子の退部理由が明言されていないこと

 

スクスタ20章では、栞子が移籍した理由が明言されませんでした。この点について前回の記事では、

同好会の脱退理由は今後の章で語られるのだろうとは思います……(中略)……が、これは20章の中でせめて伏線くらいは張っておくべきだったと思います

と書きました。この予想通り、栞子の退部理由については28章になってようやく明言されました。つまり「ランジュが幼い頃のように孤立してしまっても、自分だけはランジュのそばにいてあげたい」というのが、栞子の移籍の理由だと判明しました。23章では、同好会への復帰の意思を歩夢に問われた際に「ランジュとは、古い付き合いなので」「放っておけないのです」と「部」に残る理由について答えていますが、理由として成り立っているのかすら怪しい理由であり、お茶を濁したような回答でした。この23章における栞子の発言は、28章で語られた「真の移籍理由」の明確な伏線になっているということは間違いなさそうです。ともあれ、栞子の退部の理由について語られていないという問題点は一応解決しました。

 

しかし、ここで疑問なのは、「そもそもなぜ栞子はもっと早い段階でランジュの過去に関する事情を同好会側に説明していなかったのか?」ということです。栞子自身が言うようにランジュ側と同好会側の仲介役を担いたかったのであれば、ランジュの過去について同好会に説明しておけば、争いが収まるかどうかは分からないにしてもここまで揉めることはなかったのではないかと思います。栞子にとってみればランジュは苦い過去を持つ不憫な子なのに対して同好会にとってのランジュは絶対的な悪なわけですし、ランジュの過去を説明すれば多少なりとも対話の余地が生まれる程度には相互理解が深まる、と考えるのは極めて自然なことだと思います。コミュニケーションが不得手な栞子にとって、ランジュの過去をそのまま話して同好会側が理解してくれるか不安に思い話せなかった、という擁護もあるかもしれません。しかし20章の時点で既に同好会とランジュとの関係は最悪な状態だったわけで、ランジュの事情について同好会に話したところでこれ以上事態が悪化する可能性が見当たらないように感じます。百歩譲ってこの擁護を認めるとしても、栞子が「部」に移籍してからの言動には他にも大きな疑問点が残っています。

 

栞子の言動に関するもう一つの大きな疑問点として、「そもそも栞子は「部」に移籍する必要が本当にあったのか?」ということが挙げられます。こういうことを言うと即座に、「23章では栞子が監視委員をコントロールすることで同好会への妨害を最小限に食い止めようとしていたのだから、栞子が移籍した意義はあった」という反論が返ってくるのだろうと思いますが、動機や過程はどうあれ現職の生徒会長という立場にある人間が部活動の妨害という人権侵害の片棒を担ぐという判断に至ったこと自体に強い違和感を覚えます。生徒会長だからというだけでなく、堅物キャラの栞子が「ダメなことはダメ」と言わずに左月や右月を使い回して政治工作のような手段を使うのか? というのも疑問です。生徒会長という立場にある学生が(いや一般生徒であっても)、監視委員をつくれなどと言われて教職員や保護者に相談したり内部告発をしたりする以外の行動に出る理由が分かりません。百歩譲って、やむを得ず監視委員の運営をせざるを得ない状況に追い込まれていたと認めるとしても、「左月と右月は本当は同好会の味方だから安心してほしい」「左月と右月が妨害のポーズをしてきたら妨害されているフリをしておけばいい」と事前に同好会と打ち合わせおけばそれで済む話でしょう。

 

栞子の移籍の必要性に関する疑問はまだあります。先述したとおり栞子の移籍の理由は「ランジュが孤立化してもそばにいてあげたい」という同情心が動機だったわけですが、そばにいてあげるだけならわざわざ同好会を抜ける必要はないのでは? と言う疑問です。はっきり言って、栞子が語ったこの移籍の理由にしても、「監視委員などに端を発するランジュの暴走の抑制」という移籍の意義にしても、あまり説得力を感じず、かなり都合の良い言い訳のように聞こえてしまいます。というのも、栞子はランジュのやり方に強い不満を抱いていると言いながら、23〜24章で愛の提案した合同イベントに積極的に出場の意思を示しているという描写があるためです。ランジュのそばにいてあげたいとか、同好会への妨害を食い止めたいとか色々と弁明しておきながら、「部」の身勝手な都合がきっかけで開催された合同イベントにノリノリで参加して「せつ菜さんに勝ちたい」などと言ってしまうのはかなり言動が矛盾しているような印象が拭えません。(合同イベントの問題点についてはのちに議論します)

 

また、もっとシンプルに「問題点2」の「キャラの好感度低下問題」と関連した問題も指摘できます。栞子は8章の初登場以降同好会と対立する時期が長らく続いており、長い時間をかけながら同好会と和解していき、1stシーズンの終わりの17章でようやく同好会側と全面的に対立を解消したばかりです。しかも栞子は正式に同好会所属のスクールアイドルとなり、これからラブライブ!ファンの支持を広げていかなくてはならない状況にありました。ですから、2ndシーズンでは栞子に対する好感度を上げるため、しっかりとした見せ場を設ける必要があったと言えるでしょう。このような措置は『ラブライブ!』シリーズにおいて伝統的に講じられてきたものであり、TVアニメにおける絵里やダイヤ、Saint Snow などに関してもうまく好感度の調整が行われていたと思います。ところが栞子の場合、同好会と和解して加入したにも関わらず、まもなくして同好会と対立する組織に身を投じてしまいました。その上で、27章では1stシーズンで同好会やせつ菜に対し横暴な言動をしたことを謝罪し、姉・薫子との一件があり多少は見せ場があったとはいえ、ランジュの暴走を食い止めるなど事態の好転に大きな役割を果たしたとはとても言い難いでしょう。それは栞子本人も「同好会のみなさんとランジュとの間で右往左往するだけで……」(29章3話)と振り返っている通りです。これほど栞子が貶められるような描き方がなされている以上、もはやラブライブ!ファンからヘイトを集めてしまうのも仕方のないことではないかと思います。

 

 

問題点1 - 4:愛・果林の同好会メンバーに対する配慮が全く無いこと

 

前回の記事では、愛と果林はもっともらしい積極的な理由づけをして「部」に加入しているが、2人とも同好会の置かれた状況をよく認識していながら同好会に対する良心の呵責を感じているような描写が全く見られず、まるでサイコパスのようだと指摘しました。さらに、「実は2人はランジュの過去に関する大事な秘密をなにかのきっかけで知っており、ランジュへの同情から移籍を決意したのではないか」という他の方の考察を引用しつつ、その方向性による解決も現実的には難しいのではないかと論じました。結局、2ndシーズンが完結した今となっては「ランジュへの同情心」説が明確に否定され、「サイコパス」問題も全く解決されず有耶無耶にされたままになったことは周知の通りです。

 

愛と果林の「サイコパス」問題に関しては、監視委員の問題などとまとめて「問題点2」の方で詳しく論ずるつもりなので、ここでは29章で描かれた2人の同好会復帰について私見を述べておくのみに留めるとしましょう。

 

さて、29章では、愛・果林というPDP当初からの初期メンバーが9ヶ月間にわたって同好会を離れるという異常事態にようやく終止符が打たれました。しかし私は、この2人の復帰を手放しで受け入れる気持ちにはなれませんでした。それは2人が同好会にしてきた仕打ちなどとは関係なく、純粋に2人の復帰の際の心情描写が致命的に不足しているのではないかと思ったためです。

 

そもそも2人が「部」に移籍した理由は何だったでしょうか。果林の場合は、恵まれた環境で高度なレッスンを受け優秀な仲間と切磋琢磨することで自分を高められると思ったからというのが理由でした。愛の場合は事情がやや複雑ですが、何も知らないまま相手のことを全否定するのではなく友達になれる可能性を模索したかったから、そして他の同好会メンバーに比べて思うように実績を出せない自らのスクールアイドル活動の状況を打開したかったから、という2つの理由が主な動機だと考えてよいと思われます(後者の方は23章で初めて明かされましたが、おそらく前者よりも後者の方が移籍の理由としては大きいのでしょう)。そして23〜24章で愛は合同イベントを企画・開催してますます自身の負けず嫌いな心に火がつき、25章で果林はファンの応援を受け止めることの重要さを学んだ上でもやはり環境の優れた「部」に残って修練を積むことを選択します。さらに26章では極め付けとして、お互いが勝負して高め合うようなユニットを結成してスクールアイドルエキシビションの校内オーディションに臨もうとします。つまり愛と果林の2人は一貫して、優れた環境で厳しいレッスンを受けて優れた仲間と切磋琢磨するという「部」の理念に心から賛同しながら行動していると言えます。ところが29章でランジュが突如として自らの非を認めて「部」を解散し、同好会に入部すると言い出します。ランジュがいきなりこんなことを言い出したのは、28章における一連の騒ぎを経て歩夢や「あなた」と対話したことがきっかけで、スクールアイドルのパフォーマンスはファンの応援があってこそのものだと気づいたことが原因でした。しかし一方の愛と果林には、ランジュが「部」の解散を言い出した時点で、同好会に復帰する積極的な理由が何もありません。愛と果林は、「部」のラストライブでランジュが廃部を決意した時もパッとしない反応を示しており、ランジュが同好会に入部したタイミングでエマに復帰の意思を聞かれた際も同好会側とのコミュニケーション不全を反省する一言を口にしただけで、自分たちが積極的に復帰したい理由を何も語っていないのです。それもそのはず、28章から29章にかけての2人にとっては積極的に同好会に復帰したいと思えるような心情の変化が何も起きていないのですから当然でしょう。ですから、ランジュの決意とは別に、愛と果林にとって同好会に復帰したいと心から思うようになる積極的な理由づけが必要だったと思います。

 

この愛・果林の心情描写の問題で、特に深刻だったのは果林です。果林は25章において、エマ・彼方と和解していくなかで「スクールアイドルがファンの応援を受け止めることの大切さ」に気づいています。この気づきは、29章でランジュが気づいたことを先取りしているだけでなく、30章で提示された2ndシーズン全体のメッセージ性を先取りした内容になっています。ところがこの果林の気づきにも関わらず、果林は「部」に残り続けることを選択します。それはつまり、「ファンの応援の大切さを学んでもなお、高度な環境で切磋琢磨することはやめない」という果林の意志が表れているわけです。もちろん、「ファンの応援の大切さ」と「高度な環境に身を置くこと」とは必ずしも矛盾するわけではないので25章における果林の選択がおかしいというつもりはありませんが、この果林の決断を踏まえるなら、29章で果林がランジュの同好会への移籍に安易に便乗しているのはおかしいと思います。すなわち、ランジュが「部」を解散して同好会へ入ると言い出しても、25章で「部」に残る決断を選んだ果林なら「本当に同好会に帰ってもいいのか?」と躊躇するはずであり、そんな葛藤がまったく描かれていないのは非常に不自然だというわけです。しかもさらにおかしいのは、ランジュが「部」での最後のライブを終えたときに

「あの子は、「スクールアイドルの気持ちを全部受け取って、自分の気持ちを声援にして返す」って言ってたわ」

「ランジュ、最初はどういうことかよくわからなかった。でも、ついにわかったの!」

「あの子は、……ううん、会場のみんなは、ただランジュのパフォーマンスを見てるだけじゃない」

「楽しいよ、って気持ちを、ランジュに教えてくれていたんだわ!」

と同好会が大切にしてきた価値観に気づいたのに対し、果林が

「……そういうの、意識したことはなかったけど、言われてみればそういうことなのかもしれないわね」

と返したところです。果林は25章で学んだことを完全に忘れてしまっています。25章でのせっかくの感動的な展開も、これでは台無しです。

 

果林の復帰の理由について長々と論じてきましたが、実のところ、果林に関しては移籍の理由についても違和感のあるセリフがあります。20章で果林は「私はお友達を作りたくて同好会に参加したわけじゃないわ」と発言していました。一方で、ランジュは友達を作りたかっただけだという説明を28章で栞子から聞かされた果林は、「私は、少なくとも友達になれたと思ってたわ。でも、ひと言もなく部を解散させていなくなるなんて! ランジュは、私たちのこと友達と思ってなかったの?」と言っています。友達を作りたいわけではないと言い放って同好会の皆という友達を失いかけても平気だったのに、なぜランジュの時だけこんな必死な物言いになるのでしょうか? ここでの「友達」という言葉を「高め合える仲間」だと解釈するとしても、やはり違和感が拭えません。

 

 

問題点1 - 5:監視委員会という支離滅裂な組織を作ったこと

 

「自由な校風」であるはずの虹ヶ咲において、ふつうの学校ですら認めないような監視委員会なる組織が理事長のお墨付きで活動できているのは支離滅裂だと前回の記事でも指摘しましたが、やはりその点も納得できるような監視委員会の設立経緯は一切説明されないまま2ndシーズンは完結しました。

 

当然ながら、転校してきたばかりのランジュが監視委員会などという強い権力を手にすることができたのは、理事長の娘という特権を利用したものです。理事長は監視委員会の設立を黙認することで、娘であるランジュの所業を咎めるどころかむしろ実質的に加担していたと言えます。他にも理事長は、娘のランジュに部活動の標準的な予算を大きく逸脱した豪華な部室を与えたり、それでいて娘の世話は栞子に丸投げしたり(19章10話)、帰国を決意したランジュに悩みを打ち明けられても叱ったり親身になって慰留したりした様子すら全くない(28章2話)など、娘への教育に関して相当な問題を抱えているとおぼしき描写が目立ちます。そもそもランジュが友達の輪に入れず馴染めないという幼少期からの問題を理事長がずっと放置してきた結果が、ランジュが高校生にもなって他人の気持ちが全く分からずに暴走し続け2ndシーズンの悲劇を生んだのではないかと思います。音ノ木坂の南理事長、そして最近では結ヶ丘の理事長など、ラブライブ!シリーズには有能な理事長に恵まれないと揶揄する声もしばしば聴かれますが、これほど問題だらけの理事長は後にも先にも虹ヶ咲の理事長だけだろうと感じています。結局、理事長が自らの重大な責任について謝罪や反省の弁を一切口に出さないまま、2ndシーズンは完結してしまいました。

 

 

問題点1 - 6:しずくの脱退理由が不明瞭、不自然であること

 

20章10話でしずくが「部」に転部した際、色々な理屈を並べてはいるものの結局は「部」の環境に身を置いて成長したいというのが最大の転部の動機でした。そして、これでは愛や果林の動機と実質的に何も変わらず、「部」のやり方に疑問を抱き反抗してきた同好会とずっと活動を共にした結果がこれなのか、と前回の記事で論じました。この点については特に補足の必要すら無いかと思いますが、既に他でも言われているように、しずくが行き詰まって転部するという判断は今回が初めてではなく同好会が5人だった時代にもあったことでした。つまり今回の転部騒動で、その時と似たような過ちを重ねてしまったことになるわけです。しかも極め付けだったのは、アニガサキ8話の連動ストーリーでしずくが同好会5人時代の自身の転部を思い出しながら同好会を再び去る演技をして、かすみに怒られるという一幕があったことでした。まるでしずくが嫌がらせを楽しんでいるかのような印象を持ったのは、私だけではなく多くの読者も同じだったようです。結果として、しずくが転部を繰り返すことで成長性のないメンヘラのように描かれてしまっていると言わざるを得ないと思います。

 

今から考えれば、シナリオライターにとって20〜21章のしずくはストーリーを動かすための駒だったのだろうという印象が強いです。実際、今まで思い通りに同好会側を牽制してきたランジュとミアに対して(しずくのゲリラライブによって)初めて一矢報いるという展開が作られ、さらに「あなた」の作った曲が「ノイズ」として脳裡に焼きついたミアが自身の問題を解決するという22章の展開の発端にもなっています。そのため、しずくにはストーリーを動かす役割があったということは分かるのですが、それにしてもわざわざしずくを貶めるようなストーリーにする必要があったのかはかなり疑問です。

 

それと、これは議論の本筋からは脱線するのですが、21章で移籍したしずくが食堂でかすみと言い争いをする場面において、「天井を見上げる」という文は重言(同じ意味の語句が重複してできているような語句)であり文法上の誤りだとかすみにマウントを取る一幕がありました。しかし、このしずくの主張には強い違和感を覚えます。たしかに「天井」には「上にある」ものという意味も含まれているので、一見すると重言という見方もできるように感じますが、「天井」と「見上げる」とは慣用的に深く結びついた語句であるため、この場合は重言というより「コロケーション」もしくは「共起表現」の一種であると理解したほうが正確だと思われます。例えば「ピアノを弾く」の場合、「ピアノ」は「弾く」ことで音を出す楽器であり、「布団で寝る」の場合、「布団」は「寝る」ための生活用品であって、「歌を歌う」の場合、「歌」は「歌われる」対象としてあるものです。しかも「ピアノ」と「弾く」、「布団」と「寝る」、「歌」と「歌う」とは互いに深く結びついた語句であると言えます。これらの例と同様に、「天井」が本質的に「見上げ」られる対象であるとしても、それは重言というよりコロケーションとして捉えられるべきでしょう。したがって、「天井を見上げる」という日本語が誤っているというしずくの主張こそ誤っていると思います。そして、このような日本語文法の誤った解説を堂々とシナリオ上に載せてしまうライターは、日本語を扱うプロとして本当に大丈夫なのだろうか? と心配になりました。(※ この問題に関して詳しく知りたい方は、次の文献を参照してください:兪暁明、「重言とコロケーション ―その関連性と認め方―」、『北陸大学紀要』第33号所収、2009年

 

 

問題点1 - 7:「あなた」が過去の教訓に学んでいないこと

 

20章4話で、「あなた」はミアの実力に圧倒され、同好会メンバーたちにとって自分は力不足なのではないかと悩んでしまいます。しかし7章で『TOKIMEKI Runners』を作曲した時も、「あなた」は作曲者としての真姫の実力に圧倒されて同じ悩みを抱え、そしてその苦難を乗り越えていました。すなわち20章での「あなた」は、(まさに上記のしずくと同様に)忘れるはずのない自らの過ちを忘れているかのようであり、やはり成長性がないのではないかという印象を抱かざるを得ませんでした。

 

しかし今から考えればこの20章での描写は始まりに過ぎず、「あなた」に関しては2ndシーズンを通して不可解な言動が目立っているように思います。第一に、同好会が監視委員によって妨害を受け、「部」と対立する状況が続いても、「あなた」はいまいち深刻さを認識していません。積極的にやったことと言えば、せいぜい20章4話で監視委員の件などについてランジュに直談判しに行った程度で、あとは状況の見守り役に徹しています。しかし従来の「あなた」は、スクールアイドルになにか問題が起きるたびに熱心にあちこち動き回って足掻こうとする姿勢が目立っていたと思います。1stシーズンでは虹ヶ咲の活動のヒントを探るためにAqoursやμ'sにまで長期間密着するという行動力を発揮し(3〜6章)、栞子が同好会の廃部をちらつかせてきたときは矢面に立って抗議(8〜10章)。さらに学校説明会では巧みに政治力を発揮してミーティングを成功に導き、栞子の体験入部を実現させるなど懐柔工作にも余念がなく(13章)、スクールアイドルフェスティバルのボランティア問題が勃発した際は必死になりすぎて歩夢との喧嘩にまで発展しました(15〜16章)。キズナエピソードにおいても問題解決能力や行動力の高さは遺憾なく描写されています。その「あなた」が、2ndシーズンで不幸な情勢が延々と続いてもほとんど見守り役に徹しているというのは違和感を禁じ得ませんでした。

 

第二に、いま述べたように2ndシーズンでは「あなた」の行動力が著しく低下しているにも関わらず、「あなた」本人はそのことを認識していません。実際、「あなた」は30章において「予想を超えると言えば、留学から帰ってきてからの日々。思い返すと毎日が挑戦と冒険だった」「私たちは、かけがえのないものを掴み取ることができたんだ……」と2ndシーズンを振り返っています。しかし、2ndシーズンでの「あなた」が毎日「挑戦と冒険」をして「かけがえのないものを掴み取ることができた」などとはお世辞にも言えないということは既に述べた通りです。

 

第三に、20章10話とその直後の21章1話とで、「あなた」の心情に明確なズレが生じています。20章10話でゲリラライブをやり遂げた後に「あなた」は次のように発言しています。

「部室の設備やミアちゃんの作る曲……何もかもが驚きだったんだ」

「この環境でみんなが活動したら、どれだけのステップアップになるんだろう、どんなパフォーマンスを見せてくれるんだろう、って何度も想像したよ」

「でもね、ゲリラライブでそんなの全部吹っ飛んじゃった。設備や予算、それに人手の多さはかなわないけど、スクールアイドルはそれで決まるわけじゃないんだよね」

「みんなの魅力は、そんなことなんにも関係ない」

ところが、その直後の21章1話では、

「私ね「スクールアイドル部のしずくちゃん」には興味があるんだ」

「向こうでの経験は、絶対にしずくちゃんにとってプラスになるよね」

「部って、パフォーマーとしての完成度を高めるための環境が完璧に整ってるんだよ」

「あの環境で練習を積んで、ミアちゃんの作った曲を歌う……

きっと、今まで見たことのないしずくちゃんを見られると思うんだ」

「私は見てみたい、新しい挑戦をしたしずくちゃんを」

と発言。「部」の高度な環境に圧倒されて怯んでいた「あなた」が20章10話でようやく奮起したにも関わらず、21章1話では真逆の心情を吐露するようになってしまっています。

 

第四に、29章で「あなた」は自らがスクールアイドルにならない理由を忘却してしまっています。「あなた」は、メインストーリーの序盤(3章)でダイヤに、

「あなたは、ステージに上がりたいとは思わないのですか?」

「勘違いなさらないでくださいませね。仲間をサポートしたい、というあなたの気持ちを疑っているのではありませんわ」

「ただ、スクールアイドルに関わる身なら、自分自身がライトを浴びたいと思うこともあるのではないかと……」

と問われています。これに対する「あなた」の回答は、

「……うーん、それが……、不思議と、そういう気持ちは無いんだよね」

「あ、ステージが嫌いっていうわけじゃないよ? ただね、大好きなスクールアイドルを一番近くで応援する…… 一番の、理解者になりたいんだ」

「それって、自分がスクールアイドルになって活躍するより、すっごく贅沢なことだと思うから」

「だから、私はステージに上がらなくてもいい。その代わり、誰よりも近いところで、みんなを見守りたい」

というものでした。ところが29章で「……ねえ、アナタはステージに立たないの? それだけスクールアイドルが好きなのに」とランジュに訊かれた「あなた」は、「え? ……そういうこと、考えたことなかったな……」と発言しています。自分があえてスクールアイドルとして活動しない理由を、「あなた」は明確に自覚していたはずなのですが、29章ではどういうわけかすっかり忘れてしまっているように思えます。ただし、この点に関しては次のような反論が考えられます。すなわち、3章におけるダイヤの質問は純粋にスクールアイドルにならない理由を問うたものだったのに対し、29章におけるランジュの質問は「スクールアイドルが好きであるにも関わらず」スクールアイドルにならない理由(言い換えれば、スクールアイドルが好きなのにスクールアイドルにならないのは変なのではないか? という問いの答え)を求めたものであり、質問のニュアンスが異なっているので「あなた」の答えも異なったという擁護です。

 

しかし、百歩譲ってこの意見を認めるとしても、矢澤にこキズナエピソード4話とは明確な矛盾が生じています。「あなた」は、

「どうしてスクールアイドルをやらないで、手伝いをするの?」

「だってスクールアイドルを好きになったんでしょう? だったら、あなたもなればいいじゃない、スクールアイドルに!」

とにこに問われた際、

「でもね、にこさん。私は…… スクールアイドルを一番近くで応援していたい」

「好きだからこそ、力になりたいの。にこさんと考え方は違うけど…… 輝くスポットライトも歓声も、私には来ないけど…… みんなが輝くようにサポートすることが、私にとっての輝く道だと思うから」

と発言しています。これは、まさしく「好きであるにも関わらず」スクールアイドルにならない理由を「あなた」がはっきりと自覚している証拠です。

 

というわけで、かなり長くなってしまいましたが、とにかく「あなた」の言動は2ndシーズンを通してブレまくっていると言わざるを得ないと考えます。

 

 

問題点2 - 1:過剰なギスギス展開

 

さて、ここからは「問題点2」、すなわち「描写が『ラブライブ!』という作品のコンセプトに相応しくない」という問題について論じていきます。前回の記事では大きく3点に分けて論じましたが、今回も「問題点1」と同様に一つずつ再論していきたいと思います。

 

まずは、監視委員や妨害行為をはじめとして、2ndシーズンのギスギス展開・鬱展開が『ラブライブ!』シリーズの限度を越えており、シリーズのブランドイメージに相応しくないという問題。この点そのものについては特に改めて補足することは無いのですが、監視委員や妨害行為という要素の倫理性の問題については次項でまとめて詳しく論じます。

 

 

問題点2 - 2:キャラの好感度の過剰な低下

 

ラブライブ!』シリーズでは、ストーリーに必要な最低限の描写を除いて、キャラクターの好感度を極力損なわないような工夫が凝らされてきました。そしてその方針は、『ラブライブ!』のブランドイメージの大きな柱のひとつになっていたと言っても過言ではないでしょう。ところがスクスタ2ndシーズンでは、新たに「部」のメンバーとなったキャラを中心として好感度を大きく損なったキャラが複数存在しています。

 

この問題点については前回の記事でももちろん取り上げたのですが、実を言うと、2ndシーズンが完結した今となってみれば、この問題点こそが2ndシーズン炎上問題の核心なのではないかと私は考えています。今まで散々シナリオ上の矛盾点などを指摘してきながらこんなことを言うのも何ですが、シナリオの矛盾よりはこちらの方が根本的かつ重大な問題だと思っています。その意味で、今から述べることはこの記事の本論と言ってもよいでしょう。

 

(1) 愛・果林

 

さて、2ndシーズンの主な登場人物のうち特に好感度を損なったのは、愛・果林・ランジュ・ミア・栞子・しずくの6人と見ておおむね問題は無いかと思います。このうち栞子の好感度問題に関しては既に「問題点1 - 3」の項目でも触れました。しずくとミアについては、他の4人ほど致命的な好感度の低下は起きませんでした。そのため栞子・しずく・ミアの3人に関してはここでは省略するとして、愛・果林・ランジュの問題について取り上げることにしましょう。まず、愛と果林に関しては、結局この2人が「部」に移籍した理由はランジュと友達になりたかったというよりも自身の成長のためだったということで決着しました。しかし「部」が監視委員を使って同好会の活動を妨害してくるなかで、自分たちだけそのような理由で転部するのはかなり身勝手な行動です。愛に至っては、20章で「愛さんだって、同好会で活動できるのが一番だよ? でも、実際ほとんど活動できないじゃん。だったら、練習だけでもやっときたい」とまで言い放っています。本当に今の状況の深刻さが分かっているとは全く思えない発言です。

 

愛と果林の問題について、ここまでは前回の記事でも論じてきましたが、この2人の場合はまだまだ終わりません。愛は、21章以降も、「逆境の中でこそ真価を発揮するっていうでしょ? 逆に燃えるじゃん! 同好会から学んでいこう!」(22章)、「同好会のみんなって本当にすごいんだー」「部室が使えなくなったり、ライブが思うようにできなくなったりっていう障害を跳ね飛ばして、パワーアップしてるんだよ!」「オンラインライブもすごかったんだ。アタシ、ますますみんなのファンになっちゃった」(23章)などと無神経なセリフを連発し、そのたびに読者の間で批判が巻き起こってきました。さらにランジュは同好会を吸収するため監視委員に代わるプロパガンダ作戦の立案を愛に依頼し、愛はそれを快諾。ごく最近まで部室も取り上げられていて、まともに練習できる環境がなかった同好会を相手に「正々堂々と」トーナメント勝負を持ちかけようとします。このトーナメントは、愛が自分の負けず嫌いな一面を自覚しつつ同好会に勝ちたいと強く願ったことで実現したものでした。しかし、まともな感覚をしていれば、この非常に不公平な合同イベントで相手に勝てたとしても全く嬉しいとは思わないはずです。果林に関しては愛ほど挑発的で無神経な言動は無かったものの、やはり不公平感に満ちた合同イベントで「正々堂々と」勝負したいと考え、妨害に苦しむ同好会を尻目に「部」での日々をエンジョイしていたのですから愛と大して変わりません。2人が29章で同好会に復帰する際はかすみに問い詰められて一応その件を謝罪しましたが、もはやこれまでにやってきたことが重すぎて、スクスタの読者の間で2人の信頼が回復するのはしばらく無理な情勢でしょう。

 

この2人に関してさらに補足するとすれば、まずは28章で言及された「愛と果林は実は体験入部という形で「部」に入っていた」という新情報を検討しておかねばなりません。28章にもなって愛と果林が体験入部だったと明かされた理由は必ずしも定かではないですが、おそらく、20章では単なる転部だと言っておくことでハラハラ感を演出し、28章で実は「体験入部」だった(つまり実はまだ同好会に籍がある)と明かすことで2人のイメージを挽回しようとしているのではないかと思われます。要は、シナリオライター側のメタ的な事情というわけです。しかし、2人が同好会に籍を置いていたなら「同じ部活の仲間の危機にも実質的に見て見ぬふりをしていた」ことになるわけで、2人が薄情であるというイメージは1ミリも回復しないのではないでしょうか。それに、そもそもそういう事情があるならなぜ2人は同好会との最初の話し合いの場でその旨を言わなかったのかという根本的かつ重大な疑問が浮上します。これまで同好会側は今まで2人が「転部」をしたものと認識してきましたし、その認識に対しては2人もまったく否定してきませんでした。2人が体験入部だと公言できない特別な事情があることを示唆する描写も見受けられませんでした。この点に関して、何とか整合性が取れる筋書きとしては、「最初は体験入部のつもりだったが、すぐに気が変わって正式に同好会を退部した」という可能性が挙げられますが、それなら何故2人は一瞬で気が変わり退部したのか? という新たな疑問が湧いてくるだけです。

 

もう一つ補足すべき点は、愛と果林がランジュを理解しようとして移籍したという側面についてはどうなのか、ということです。果林はともかくとして愛については、20章の段階から「部」のことを全否定したくない、ランジュとも友達になりたいという移籍の動機が語られてきました。しかし、それならばランジュがなぜパーフェクトにこだわるのかとか、なぜ強引なやり方にこだわるのかという部分を掘り下げることで、もしかしたらランジュという人間を理解してあげられるかもしれないと考えるのは極めて自然なことです。となれば、愛は当然ながらランジュの幼馴染の栞子に、ランジュの性格の背景にある事情について聞いてみることになるはずです。ところが驚くべきことに、28章でランジュがどんな過去を辿ってきたのかを同好会の側から栞子に聞くまでは、果林のみならず愛でさえ「ランジュは友達を作りたいだけ」という真意すら知らなかったのです。ランジュを理解したい、友達になりたいなどと言いながら、理解する努力がまるでなされていないと思ってしまいました。

 

(2) ランジュ

 

一方のランジュはと言えば、物語が進むごとに同好会メンバーへの態度が軟化し、2ndシーズンの後半ではふつうに同好会と交流する描写が多く見られたため好感度の低下がさらに大きく進行したとは言えないと思います。しかし発端の20章や2ndシーズンの前半での振る舞いがあまりにも酷いので、並大抵のことでは好感度を正常化することはできません。28〜30章でランジュが同好会に受け入れられてからも、スクスタの読者の多くがランジュを容易に受け入れられるとは考えられないのです。

 

しかも、愛・果林・ランジュの無神経な言動にも関わらず、特に2ndシーズンの後半では監視委員や妨害行為による遺恨がまるで忘れ去られているかのような日常風景が描かれるようになりました。これに関しては、平和な日常が戻り始めて良かったという好意的な意見がある一方で、「部」にあれだけのことをされておきながら「部」と呑気に交流している同好会に強い違和感を覚えたという意見もありました。私も後者の立場ですが、この点に関する意見の相違も、ラブライブ!ファンどうしの分断が大きくなった重要なきっかけだと思っています。

 

極め付けは、28章で同好会メンバーがランジュの過去に共感し、自分たちがランジュの思いについて理解しようとしてこなかったことを詫びる場面。あれほどの仕打ちを受けておきながら、相手からの謝罪さえ無いのになぜ自分から謝罪するのかと批判が噴出しました。これに対しても、同好会(特にかすみやエマ)が相手を理解しようとしなかったのは事実だなどと擁護論が展開され、ファン内部における意見の相違に拍車がかかりました。しかしランジュに悪意があろうが無かろうが同好会に対する仕打ちは重大ないじめの領域であり、いじめの被害者が加害者に対して「対話をして話が通じる相手だ」などとは考えないのは当たり前のことです。例えばですが、窃盗の被害に遭った人が犯人と冷静に対話をして、犯人の悲しい過去や背景にある社会問題に想いを馳せなければならないのでしょうか? どんなに人情深い人であっても、その前にまずは警察に通報して処罰してもらうのが普通のはずです。「加害者はもちろん悪かったが、被害者も加害者の事情を理解しようとする努力はすべき」などと悠長なことを言っていたら社会は成り立ちませんし、世間の常識からも著しく乖離した主張であると言わざるを得ません。ランジュのやったことは犯罪ではないと返されるかもしれませんが、何の罪もない一般人が普遍的かつ正当な権利を突然見知らぬ誰かに奪われ緊急事態に陥っているという点では共通していますし、現実でこんなことが起きたら文部科学省が介入して第三者委員会が設置され立入調査を経て理事長が解任されるレベルの大事件です。したがって、一方的に活動を禁止してきた相手をかすみたちが「対話が通じる相手ではない」と判断するのはごく当たり前のことでしかありません。要するに、28章での一連の描写に不満がある読者は「対話や理解をするべきとはいっても限度があるだろう」と思っているというわけです。

 

思い返せば1stシーズンの栞子も同好会の廃部などというとんでもない主張をしてはいましたが、生徒会長選挙で菜々と対峙するなど、曲がりなりにも段階を踏んで実現しようとしていました。それに菜々に勝利した後も直ちに廃部を強行しようとはせずにある程度の猶予を設けていました。もちろん栞子の言動は強引でしたが、それでもまだ同好会が対話に応じる余地は十分あったわけです。実際、同好会側は理不尽な要求に文句を言いながらも栞子の深い意図を探ったり栞子に体験入部を提案したりと、「反発だけして終わり」ではない対抗策を練ったことで栞子との和解に至りました。また、今回の件をTVアニメ『ラブライブ!』1期や『サンシャイン!!』1期で描かれたキャラどうしの対立と同様のものだとする意見も見ましたが、既に述べたようにいくら悪意が無かろうが監視委員の設置まで行けばそれはいじめや人権侵害の段階です。従来シリーズで描かれた対立ではキャラどうしに対話の余地が生じていたためさほど大事にならなかったのであって、従来シリーズにおける対立と監視委員の悪質な妨害行為とは争いの次元が異なっており、比較にはならないでしょう。ランジュがいきなりやってきて同好会の活動禁止を宣言した段階では同好会とランジュとで対話の余地は生じようもありませんし、愛と果林に関しては、20章が始まったとき既に同好会メンバーとの間で何度も対話を積み重ねているのでこれ以上対話のしようがありません。以上のことなどを総合的に考えれば、「かすみやエマは対話の努力を怠った」という主張が難癖以外の何ものでもないことは明らかです。

 

そもそも、同好会メンバーは本当に「部」の側と対話を試みてこなかったのでしょうか? まず、同好会と「部」の本格的な交流が始まったのは23章で監視委員が解散した直後の合同イベントの打ち合わせからでしたが、同好会が打ち合わせに応じることができたのは、活動妨害という非常事態がとりあえず解消されたことで対話が生じる余地も出てきたという点が大きいと考えられます。イベントに消極的だったエマや彼方ですら司会進行として手伝いに入ったわけですし、当時の同好会の状況を考えればこれだけでも十分な譲歩と言えると思います。またその後も同好会が26章で合同合宿に参加したことで和解のムードが強まったわけで、同好会は対話を拒絶したどころか徐々に譲歩しています。そもそもエマをはじめ同好会の皆が28章で失踪したランジュを心配することができたのは、以上のような交流の積み重ねがあったからこそですし、同好会が本当に対話を拒絶していたならランジュの失踪にも無関心を貫いたでしょう。一方、「部」が譲歩した事といえばせいぜい監視委員を解散させた事くらいですし、その解散の理由も「同好会の活動を停滞させる上で逆効果だから」という横柄なものだったので譲歩とさえ言えないかもしれません。ランジュはランジュなりに同好会に親しげに接していたとはいえ、お世辞にも相手に真意が伝わるような接し方とは言い難かったという事は28章でミアが指摘している通りです。エマたちが今まで自分の理解や譲歩が不十分だったことを悔やむのは心情の変化としては分かりますが、客観的に見ればむしろエマたちは十分譲歩していたと見るべきでしょう。つまり28章のシナリオではエマたちを必要以上に貶めるような印象操作がなされていると言われても仕方なく、これが炎上につながったわけです。

 

(3) ファン同士の対立の起源

 

さて、それではスクスタの読者の間でこのような極端な意見のズレが生じてしまったのは何が原因だったのか考えてみたいと思います。この項目で論じるべきことはキャラの好感度の問題なのですが、そもそも愛・果林・ランジュ・栞子などのメンバーが好感度を過剰に損なっている根本的な原因は何かといえば、言うまでもなくこれらのキャラたちが監視委員による妨害行為を指示あるいは黙認し、それに対して良心の呵責を感じる描写すらほとんど無かったことです。そのため2ndシーズンが完結した今の段階で好感度の問題を論じるとなれば、その議論は必然的に「妨害行為の指示や黙認はどれほど悪い行いだったか?」という論点に帰着すると言ってもよいと思います。そして、スクスタの読者が分断に陥った要因もその点にあるのではないかと推察します。そこで、以下ではしばらくのあいだこの論点について掘り下げてみることにしましょう。

 

先ほどからたびたび言及しているように、そもそもラブライブ!ファンは10ヶ月間にわたり、スクスタ2ndシーズンのシナリオをめぐって肯定派と否定派に分裂、いたるところで両者の間で紛争が勃発してきました。そしてその状況は現在も変わっておらず、今後もしばらくの間は変わることはないでしょう。ともあれ、肯定派の人々のなかには、「部」のメンバーたちが加担してきた妨害行為はもちろん悪いことだったものの、それぞれにはそれぞれの抱える心理的な事情があったのだから、そういうところは情状酌量して許してあげるべきだという主張が少なからず見受けられました。また、かすみやエマなども対話の努力を怠ったのだから同好会の側にも非はある、という主張もあったことは既に述べた通りです。このような擁護意見に対し(私を含む)否定派は、作中で描かれた妨害行為は人権侵害やいじめの範疇に入っており、それぞれのメンバーの事情がどうであれ擁護の余地が見当たらないと応戦してきました。つまり、妨害行為が悪であるという認識そのものは肯定派・否定派ともにおおむね共有されているものの、それがどれくらい悪いことだったかという認識において両者に意見の相違が見られるということです。

 

シナリオ肯定派の人々が、「部」のメンバーの個人的事情を汲み取ったくらいでなぜ同好会への妨害行為を水に流せるのか、私はずっと分からないままでいました。しかし、少し発想を変えてみて、「肯定派の人々は現実世界でこういう妨害行為を受ける立場になったとき、相手の深い事情を汲み取って水に流せるのだろうか?」と考えてみることにしました。当然、肯定派でさえ、本当にあんな仕打ちを受けても相手を理解しようとできるほど寛容な人間はほとんどいないだろう。ではなぜ彼らは愛や果林、ランジュの行動を理解できてしまうのか? と考えたとき、ひとつの可能性が見えてきました。おそらく、肯定派にとって、現実世界における倫理規範と『ラブライブ!』世界における倫理規範は別物として認識されているのではないだろうかという仮説が浮かんだのです。

 

どういうことか、順を追って説明します。まず、2021年の日本に生きる我々は倫理的な規範意識(人権は守られなくてはならない、生命は尊重されなければならない、など)を一定程度共有しており、それが普遍的な価値を持った倫理だと考えています。しかし時代や場所が異なれば当然、倫理規範は大きく異なることもあり得ます。例えば、近代以前の社会では人権や生命を尊重するという価値観は特殊なものでしたし、同じ現代であっても人権意識が稀薄な国は少ないとは言えません。このように、倫理規範は時代や場所によって容易に変動しうる性質を持っており、絶対に正しい倫理規範というものはありません。しかし我々は「この時代・地域ではこのような規範意識が共有されていたのだ」というような知識をいったん頭の片隅に置いておくことで、その時代・地域における人々の思考様式をトレースできるようになります。その最も良い例が、我々が歴史小説SF小説ファンタジー小説などを読むときの思考回路です。古代中国と現代日本では人々の価値観に大きな隔たりがあるにも関わらず我々は『三國志演義』を楽しむことができますし、宇宙空間で生きる人々の価値観など想像もつかないにも関わらず我々は『スター・ウォーズ』を楽しむことができます。なぜなら、その作品世界で人々が共有されている価値観を(フィクションのものとして)トレースした上で、登場人物に感情移入する能力が我々には具わっているからです。

 

それでは『ラブライブ!』の場合はどうかというと、『ラブライブ!』シリーズの登場人物たちは、現代日本に生きる我々とほとんど同じ規範意識を共有していると言えるのではないかと思います。『ラブライブ!』シリーズは、現代の東京や沼津に現実に存在する場所を舞台とし、現実の日本の女子高校生を意識したキャラを設定しています。その上で、実際に作中でキャラが何を考え、どんなセリフを言い、どういう振る舞いをしてきたかを我々視聴者がふつうに観察していれば、この作品世界の規範意識は現実世界とほとんど変わらないだろうと自然に推測することが可能です。こうして初めて、作中のキャラに共感したり感情移入することができるわけです。

 

ところが、スクスタ2ndシーズンのシナリオを深く読み込んだにも関わらず「部」のメンバーの所業を水に流せている人々というのは、おそらくその辺の認識が異なっているのではないか? と私は疑っています。つまり、2ndシーズンの作中に登場するキャラたちが共有している規範意識は、現実世界の現代日本に生きる我々が共有している規範意識とは異なっている。なので、愛や果林が監視委員の所業に見て見ぬふりをしながらレッスンに没頭しても、それを見た同好会メンバーが怒りの感情を露わにしなくても、倫理的な価値観がフィクションのものなのだからそれは不自然な表現ではない、と肯定派は考えているのではないかと。

 

では、『ラブライブ!』世界が現実世界をリアルに写しとって描かれているにも関わらず、キャラたちによって共有されている規範意識は我々のそれとは別物だと肯定派が認識しているのはどういうわけでしょうか。これも難しい問題です。しかし、考察の手がかりが全く無いわけではありません。実は、肯定派のうちの一人が、「否定派は虹ヶ咲の理事長や生徒会がまともに機能していないなどと言うが、μ'sのメンバーが知らないうちにμ'sの街頭広告やアイドルグッズが作られていたり、浦の星の一生徒にすぎない小原鞠莉が浦の星の理事長に就任していたりすることを踏まえれば、作品世界は現実世界とは物事の価値基準が違う」というようなことを言っているのを見かけたことがあります。これを見た私は「とても興味深い主張だな」と素直に感心してしまいました。というのもその肯定派の主張は、倫理的な規範意識ではなく社会制度に関する規範意識について述べたものだったためです。たしかに、μ'sに無断でグループの広告やグッズが作られていたり、私立高校の理事長にそこの生徒が就任したりするというのは、現実ではあり得ないことです。しかしそれは人々の倫理的な規範意識ではなく、社会制度に関する規範意識が異なっているに過ぎません。つまりその肯定派の主張においては、倫理と社会制度に関する規範が混同され、そのことが原因で『ラブライブ!』世界と現実世界との間にはすべての文化的側面において規範意識の差異が生じていると判断されているのです。だから、愛や果林が監視委員の暴走を黙認したり同好会メンバーがランジュの行為を水に流したりしたのを許容できたとしても、現実世界でそんな横暴な行為を受けるのは許せないというのは、その肯定派にとっては何の矛盾もないことというわけです。しかし、やはり倫理規範と社会制度の規範を混同すべきではなく、今まで『ラブライブ!』シリーズのベースにあったのは現実世界とほとんど変わらない倫理規範であったということに目を向けるべきであり、現実世界と変わらない倫理規範のもとで数々のエピソードを紡いできたことこそが『ラブライブ!』が多くの人々の心を揺さぶってきた秘訣だと私は考えます。

 

これに対しては、「作品世界と現実世界に規範意識のズレがあるかどうかなど、主観の問題にすぎない」「スクスタではスクスタ独自の倫理規範があると示されただけ」という反論が予想されます。たしかにそれはそうかもしれませんが、それでは2ndシーズンに対してこれほど多くの人々が強い違和感を覚えたのはなぜでしょうか。それはやはり、スクスタ2ndシーズンでベースとなっている倫理規範が従来の『ラブライブ!』シリーズとは根本的に異なっており、またそれにも関わらず、スクスタ2ndシーズンを『ラブライブ!』というタイトルを冠して公式のストーリーとして公開してしまったことが原因でしょう。そういう多くの人々の違和感にさえ「個人の意見」だの「主観」だのとレッテルを貼り、自分たちの考え方が正しいと信じてるのなら、今後のスクスタは一部の人にしか理解できない閉鎖的なコンテンツになっていくのだろうと思います。天下の『ラブライブ!』の主力コンテンツを名乗るゲームがそんな末路を辿ってもよいというのでしょうか?

 

以上をまとめると、監視委員や妨害行為という問題にしても、そして2ndシーズン後半でその問題が有耶無耶にされているという問題にしても、根本的には「『ラブライブ!』とはどういう作品(であるべき)か?」という点の認識が肯定派と否定派とで真っ二つに分かれ、ラブライブ!のファンの間にかつてないほどの分断が生じるという結果につながったのだろうと考えます。

 

(4) ユニット結成の悲劇

 

既にかなり長くなってしまっていますが、最後にもう一点、同好会のユニット結成に関しても言及しておきます。26章では、スクールアイドルエキシビションの校内オーディオションに向けた合同合宿で3組のユニットが誕生しました。これらはのちに DiverDiva, A・ZU・NA, QU4RTZ と名付けられることになります(ちなみにユニット名は29章(DiverDiva)および30章(A・ZU・NA, QU4RTZ)で初めて明かされましたが、命名についての話し合いがなされたことさえ言及がないままでの公表だったためかなり唐突感がありました)。しかし周知の通り、これらのユニットはスクスタのリリースのずっと前から活動しており、今回のユニット結成秘話によって初めてストーリーで語られた形になりました。ユニットの結成秘話を、各ユニットのコンセプトも含めて改めて設定すること自体はもちろん評価したいのですが、しかしその結成の経緯に関してはいまいち釈然としない部分があります。

 

と言ってもそれはシンプルな話で、同好会と「部」がギスギス対立しているという悲劇的なストーリーの真っ只中でユニットが結成されてしまったら、ユニットの始動というめでたいはずの物語が悲劇の文脈に乗ってしまうことになり、ユニットの第一印象が悪くなってしまうのではないかというだけです。もっと丁寧に言えば、2ndシーズンにおける対立の元となった部活動どうしの方向性の違いが、ユニット結成という形で表現されてしまっているという問題です。特にDiverDivaに関して言えば、メンバーの愛と果林はこの時点で「部」に移籍しており同好会と事実上敵対状態にあるわけですから、そんなネガティブな状況のなかで「同好会の」ユニットを始動させるというのは、ユニットの第一印象や結成物語のポジティブ性という観点からいかがなものかと思います。

 

そしてもう一つの重要な論点として、26章のようなユニット結成ストーリーは、「競争主義のDiverDiva」と「反・競争主義のQU4RTZ」という単なるイデオロギーの対立の構図になってしまっていることが挙げられます。例えば、調和をテーマとするQU4RTZとテーマパークをテーマとするA・ZU・NAは、テーマや方向性は全く違っていても、互いに良さを認め合える余地のある関係であると言えます。ところが一方で、愛は「部」のコンセプトである競争主義をテーマとしたユニットとしてDiverDivaを結成することを果林に打診し、これに対してエマはDiverDivaのような競争主義に強い違和感を抱いたことがきっかけでQU4RTZを結成しようとかすみ・彼方・璃奈に提案しています。こんな結成ストーリーでは、QU4RTZとDiverDivaとは必然的に互いのコンセプトの否定にならざるを得ません。主人公側の同好会と新設の「部」とが競争主義か否かというイデオロギーをめぐって対立するだけならまだしも、(メタ的には)3つの「同好会のユニット」として平等かつ平和的に始動したはずなのに、(作中では)互いにイデオロギーの対立になってしまうというのは、本来ユニットの明るい前途を思わせるべき結成のストーリーとしてあまりにも悲しいのではないかと感じました。

 

(5) まとめ

 

以上、愛・果林・ランジュのとった行動の倫理的問題、スクスタ読者同士の分断と対立がなぜ起こったか、ユニット結成ストーリーの問題点という3つの話題を論じてきましたが、これらはいずれもキャラの好感度調整や印象づけの失敗と密接に関連している問題です。そしてまた、2ndシーズンが炎上した要因の根本的部分とどのようにダイレクトに関連しているかということも丁寧に検討してみたつもりです。火の無い所に煙は立たないというように、『ラブライブ!』史上最悪の炎上が起きたことには必ず原因があります。この記事の読者各位にとって、その炎上の原因を探る手がかりとして本論が役立つのであれば幸いです。

 

 

問題点2 - 3:外国・異文化に対する偏見や無理解を助長する演出

 

前回の記事では、ランジュが香港出身であるという設定と中国語の方言をめぐるナショナル・アイデンティティの問題について論じました。本稿ではいくつか補足すべき点を加筆しておきたいのですが、国際問題についての前提知識が必要な論点でもあるので、まずは前回の記事の抜粋を(少し修正を加えた上で)再掲しておきます。

 

香港に住む人々の中には、自分は香港人であるという意識を持つ人と、中国人であるという意識を持つ人とがいます。2020年6月に実施された世論調査によれば、香港に住む若者の8割以上が自らのナショナル・アイデンティティは香港だと回答したと報道されています。また、香港人としてのアイデンティティを持つ人々と中国政府による権威主義的政策に反対する人々との親和性が指摘されています。しかも、作中でランジュが演じている振舞いは既に何度も指摘したように極めて権威主義的であり、まさしく中国共産党権威主義的政治手法を髣髴とさせるものです。これらの描写から、ランジュは香港ではなく大陸に帰属意識があるのだろうし、北京の政治体制に親和的なメンタリティを持っているのだろうと推察するのは不自然なことではありません。ですがこういったランジュのキャラ描写は、特に香港に住む人々にとってかなり複雑な気分になるものではないでしょうか。また中国人のファンから見ても、自分の国と親和的な印象のキャラがこんなに好感度最悪でステレオタイプの傍若無人なキャラに描かれていたら胸糞が悪いでしょうし、日本におけるサブカルコンテンツに対する幻滅にも繋がりかねないのではないでしょうか。さらにコンテンツのメインターゲットである日本人からして見ても、まるで親中派のような振舞いをするランジュは非常に印象が悪く、「ランジュがこの狭っ苦しい国にワザワザ来てあげたことを、もっと素直に喜びなさい」という発言は癇にさわるものです。日本・中国・香港の3地域のファンにとって平和的交流につながるのであればともかく、逆に互いに敵意ばかり生むという誰も得しない描写がなされてしまっていると言えます。中国や香港という日本との外交関係においてデリケートな立ち位置にある国のキャラを登場させる以上、そういう政治的な問題に配慮するというのは運営として必要最低レベルの検討事項のはずです。それすらできていないとなると、運営の開発能力というより人間性をまず疑ってしまいます。

 

さらに補足すれば、どんな創作をするにしてもこのようなステレオタイプかつ偏見を助長するような演出を控えるべきだとまでは私は思いません。政治諷刺マンガなどの社会派作品、あるいは暴力描写の多い作品などでは、あえて差別的な言動をとるキャラを登場させることで社会問題を考えさせたり、あるいは作品のバイオレントな雰囲気を盛り上げたりすることもあるでしょう。しかし『ラブライブ!』シリーズはそのようなタイプの作品でしょうか? 明らかにそうではないですし、むしろそういう描写を最もやってはいけない類のコンテンツだと思います。

何点か補足をします。第一に、ランジュの使用言語はほとんど普通話(中国政府によって公用語として定められた中国語の標準語)であり、今までセリフに登場した広東語はごく一部に限られます。登場した広東語の例は、

  • 「冇問題啦!」(モウマンタイラ):シナリオ上の表記では「無問題ラ!」ですが、これはおそらく日本人にとって分かりやすいというだけでなく、「冇」と「啦」の字がスクスタのテキストに使われている日本語フォント(スキップB)でサポートされていないからでもあると思われます。
  • 「香港」(ホンコン):普通話ではシァンガン
  • 「飲茶」(ヤムチャ):某有名マンガのキャラ名の由来

など、ごく少数です。簡単な挨拶の「你好」すら、普通話で「ニーハオ」と言っています(広東語では「ネイホウ」)。またランジュの持ち歌である『Queendom』や『MONSTER GIRLS』にも普通話の歌詞はありますが、広東語の歌詞は「無問題(冇問題)」だけです。ランジュの名前の公式アルファベット表記すら、“Zhong Lanzhu” と普通話の拼音に準拠したものなっています。これらの点を踏まえれば、ランジュの使用言語は事実上普通話であり、広東語はファッション感覚でしか使われていないと考えられます。ところが、現在の香港で普通話を使っている人は、中国政府や香港政府に反感を持つ多くの香港人からはかなり白い目で見られるといいます。香港人は広東語で喋るのが一般的であり、普通話は中国本土の人間が香港人に押しつけようとしている言語だと見なされているからです。香港出身者の間で反政府運動が盛り上がっている現在の香港情勢に鑑みれば、ランジュが普通話ばかり使っているのは明らかに不適切です。しかも繁体字版のスクスタもリリースされており、香港出身のファンもターゲットにしているのですから尚更です。

 

第二に、2021年1月18日のスクスタ生放送において、ランジュは「香港出身の日中ハーフ」であるとの設定が公開されました。しかしこの書き方だと、あたかも香港人は中国人の一種であると言っているかのような印象を与えかねません。「香港」と「中国」という言葉が抱える政治的なややこしさについては既に述べた通りですし、やはりこの表現も不適切だと思われます。ちなみに、ランジュの同好会加入を伝えた9月1日のスクスタ生放送においてはランジュの紹介文が一新され、「香港出身の日中ハーフ」という文言が削除された代わりに「香港から留学してきた虹ヶ咲学園2年生」という紹介が追加されました。もしかするとこの時点で「日中ハーフ」という設定が放棄されたのかもしれませんが、本当に放棄されたのかどうかは今後の動向に注目していく必要があるでしょう(実はこの点に関して、私は1月に運営に対して意見メールを送ったのですが、その内容を運営が検討した可能性があるかもしれません)。

 

第三に、以上で指摘してきたような国際問題に関わる事情は、香港出身者の間で炎上するリスクが十分にあるということは強調しておかねばなりません。実際に、過去には本件と同様の経緯で日本のIPコンテンツが炎上に至ったことがありました。その代表例として挙げられるのは、映画『ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』(2015年)の作中で香港から来た女の子シンニーが香港の言葉と称して普通話を使ったことが原因で、『ちびまる子ちゃん』ファンをはじめとした現地の香港人たちが激怒した一件です。このとき事態を重く見た製作側はすぐさま普通話のセリフを広東語に差し替える措置を取り、炎上は鎮静化しました。スクスタはさほど知名度が高くないので現段階では大きな炎上になってはいませんが、不満を抱える香港人の方はSNSなどで何人も見かけました。今後虹ヶ咲がコンテンツの規模を拡大していくことがあれば、新たな火種と化す可能性は否定できません。

 

なお、私はこういった問題に関してツイッター上で10ヶ月間にわたり何度も問題提起を繰り返してきたのですが、先月になって香港出身の方から次のようなコメントをいただきました(日本語の誤りは適宜修正しました):

僕は去年から今まで何度も運営へ意見を送信しました。しかしまったく改善なし。KLab社は、本物の香港人からの意見も無視していますが、これは親中派であることを意味しています。

さらに広東語で、

連日本人都幫手抗議過

仆街KLab都係唔理,明顯係做咗中共間諜打手と引用RTをいただきました(「日本人でさえも抗議の援助をしてくれた。クソ野郎のKLabはおかしい、明らかに中国共産党のスパイだ」という内容です)。怒り心頭だなという印象ですが、他の香港人からも複数のRTをいただいたので、やはり香港人にも運営の対応が不誠実だと感じる人は多いのかもしれません。

 

また、前回の記事ではミアの英語セリフの不備も指摘しましたが、特に問題なのは “Shit!” というセリフです。これは日本語の「クソ!」などよりもずっと強いニュアンスを持つ単語であり、アメリカでは “fuck” などともに放送禁止用語に指定されています。ミアの口が悪いのは分かりますが、『ラブライブ!』のアイドルキャラが公共の電波に乗せられないような言葉を口癖にしているというのは強い違和感があります。日本で例えるなら、「キチガイ」や「めくら」を口癖にしているようなものです。

 

 


 

以上、前回の記事において指摘した20章の10個の問題点について、それぞれ2ndシーズン完結を踏まえた総括と補足説明を行ってきました。これほど多くの点を列挙すると、まるで粗探しをしたいかのように思われるかもしれません。しかし私がこれほど文字を費やして2ndシーズンの問題点を論じたのは、粗探しや揚げ足取りをして溜飲を下げたいからではなく、スクスタのシナリオのどこに問題の本質があるのかを丁寧に検討したかったからです。ただし、問題点がこれほどまでに多いというのは尋常なことではありません。もちろんシナリオに多少の問題点があること自体はむしろ普通のことであり、読み手はある程度大目に見てポジティブな部分に積極的に目を向けるということも必要です。ところがスクスタのシナリオの場合は問題点が大量かつ致命的であり、批判するくらいならポジティブに捉えようなどと言っている場合ではありません。今回の炎上で何がどのように問題だったのかを我々ファンが有耶無耶にしてキャラの愛くるしい仕草やカップリングなどにうつつを抜かしていたら、今後の『ラブライブ!』シリーズの健全な発展のためにもならないのです。

 

とは言いつつも、批判的なことばかり書き連ねたまま終わるのはさすがに悲しすぎる上にフェアでもないので、最後に2ndシーズンのシナリオにおいて主に評価している点をいくつか述べておきます。

 

まず、22章におけるミアの成長物語は良かったと思います。両親とのコミュニケーションがうまくいっていない璃奈にとって、璃奈ちゃんボードを作ってくれたりと親身に相談に乗ってくれる愛はかけがえのない先輩でした。そして様々なスクールアイドル活動を経て成長した璃奈が今度はミアの先輩になって相談に乗ってあげるというのは、これ以上ない璃奈の成長の描き方だと感心しました。またミアが過去を克服し新たな人生の一歩を踏み出す場面も、ミアの今後に期待が膨らみました。

 

次に、25章で彼方が仲介して果林とエマが仲直りした話も良かったです。単なる仲直りで終わらせず、彼方も含めた3年生全員の友情の深まりが丁寧に描かれていたり、ファンからの応援の大切さという2ndシーズンのメインテーマをなぞっていたのが評価ポイント。実は遥がスクスタ世界でもスクールアイドルをしていたという新事実が明らかになっただけでなく、遥のライブシーンの様子が描かれていたり彼方が必死に応援する姿が描かれていたりしたのも見どころでした。

 

また、30章のクライマックスも良かったと思います。スクールアイドルエキシビションの校内オーディションの結果発表では一つのユニットが選ばれるのか、あるいは全ユニット同率1位で無難に終わらせるのかと予想が議論されていましたが、校内オーディションの理念そのものを否定して自ら失格を喰らいにいくという筋書きには「やられた」と感じました。24章の合同イベントへのアンチテーゼとしても深い意味のある校内オーディションであり、『ラブライブ!』シリーズのスローガンである「みんなで叶える物語」が強く意識されたラストだったと解釈しています。

 

2ndシーズン全体を通しては、序盤でプロとアマチュアの方向性の違いというテーマを見え隠れさせつつ、プロの目指す方向性を必ずしも否定せずに「同好会の皆の本当の魅力はプロのようなパフォーマンスをすることとは関係なかった」という結論に運び込み、スクールアイドルとファンの物語に回収したという点を評価しています。この点では、1stシーズンのメインテーマであった「大好きを追求することの大切さ」が、同好会らしさを輝かせる鍵として2ndシーズンに生かされる形になったと言えるのではないでしょうか。

 

——というように、私は何がなんでも2ndシーズンを全否定したいわけではありません。要所要所で見どころはたくさんありましたし、致命的な部分さえどうにかなれば決して悪くないシナリオにすることもできると思っています。具体的に言えば、監視委員と部室没収という妨害行為こそが2ndシーズンのシナリオにおける諸悪の根源と言っても過言ではありません。これさえなければ、多少のシナリオ上の矛盾などにも目をつぶって楽しむことができました。同好会への妨害行為が無くても2ndシーズンのシナリオは大きく内容を変更する必要はないはずですし、本当に惜しいの一言に尽きます。これがあるせいで、スクスタのメインストーリーが今後どんなに素晴らしい展開になろうとも、2ndシーズンという忌まわしい記憶が亡霊のようにまとわりつき続けるのです。

 

振り返れば、虹ヶ咲というコンテンツは『ラブライブ!』シリーズにおいて前例のない挑戦的な試みに一貫して取り組み続けてきたと言えます。ソロで活動するスクールアイドルを主人公にしたのもそうですし、ゲームのシナリオをすべての軸としてコンテンツが進むというのもそう、スクールアイドルが途中から加入するというのもそうです。だからこそ、運営の方針に多少行き過ぎなところがありファンが荒れることがあったとしてもなるべく寛容に見続けていこうと思っていました。しかし、物事には限度というものがあります。限度を超えたならばそれをしっかり指摘していくのもコンテンツの成長には絶対に欠かせません。それは、ミアとランジュという新メンバーが加入したことでお祭りムードになり、批判の声が掻き消されがちな今だからこそ必要なことです。また逆に、批判しなくてもいいところまで批判しすぎて運営のなかに新しい発想が生まれる風土が失われるようなことがあってもいけません。ここはファンとしても難しいところではありますが、虹ヶ咲を今後も応援していくならば必然的に乗り越えなくてはならないハードルなのではないかと思います。

 

しかし、そもそもなぜ運営は「限度」を超えてしまったのか。内部の製作状況が一切見えてこないスクスタに関しては憶測することしかできませんし、はっきり言ってよく分かりませんが、少なくともシナリオ会議がまともに機能していないということは言えるのではないでしょうか。サンライズのシナリオディレクターにも雨野氏をはじめとするシナリオライターにも責任はあるでしょうが、シナリオスタッフ全員がしっかりと話し合った上で決めたストーリーであればここまで破綻したシナリオはなかなか生まれないのではないかと思っています。

 

最後に、2ndシーズンと向き合い続けた10ヶ月間はとてもつらいものでしたが、何が良くて何が悪かったのかを見極めるなかで「『ラブライブ!』とは何か」という問いを深く考えるきっかけとなったのは、自分にとって不幸中の幸いだったことを付け加えておきます。

 

 


 

以下、2021.10.11 追記


近頃、ごく一部の2ndシーズン肯定派の人々が、監視委員に関する描写を様々な角度から擁護しているのを見かけることが多くなりました。そこで、特によくある擁護意見を3つほど取り上げ、それに対する反論および疑問を追記しておきます。

 

擁護その1
「部」はランジュが同好会を昇格させるために設立したものであり、その旨については生徒会にも届け出て承認されているのだから、監視委員は、その時点で非公認団体となった同好会が無許可で活動するのを警告したに過ぎない。


たしかに、ランジュが「部」を設立した動機については、この主張において述べられている通りです(28章参照)。しかし、「部」が設立されたと同時に同好会が非公認になったということや、監視委員がそのような事情を背景として活動していたということを示唆する描写は作中には皆無であり、むしろ、それらを反証するような描写が目立っています。


実際、上記の主張を認めた場合、様々な疑問点が浮かび上がることになります。

  1. もし同好会が非公認になったなら、なぜ同好会側はそのことを知らないのか? あるいは、もしそれを知っていたなら、同好会が活動を妨害されるに至った経緯を説明する場面(20章2〜3話など)でなぜ一言も言及されなかったのか? また、なぜ23章で同好会の部室復活が認められたのか?
  2. 監視委員の活動が正当であるなら、なぜ栞子は20章の時点から監視委員の活動に対して消極的な態度を露わにし、同好会の肩を持つ発言をしているのか? また、23章で監視委員が「ランジュの個人的都合により」解散したことをどう説明するのか?
  3. 同好会の後継団体としての「部」の設立が学校や生徒会に承認されたとするなら、なぜ同好会部長である「あなた」の承認なしに部活動の移行手続きが可能だったのか?

 

擁護その2
監視委員は同好会に対して警告をしていたに過ぎず、学校当局の権力を笠に着た実力行使(強制排除)はしていない。実際、同好会も活動自体はできていた。従っていじめや人権侵害などはそもそも起きていない。


この主張に関しても、正しいと認めた場合、様々な疑問が湧き起こってきます。

  1. 監視委員に実力が伴っていないのなら、なぜ同好会は一切抗議できずに「警告」に従い続けたのか? また、なぜ音ノ木坂に避難して練習したり、ゲリラライブを計画したりせねばならないほどの危機に陥ったのか?
  2. そもそも監視委員会は生徒会の傘下組織(あるいは、少なくとも外郭団体)なのだから、実力が無いというのは無理があるのではないか?


また、「監視委員によって活動の邪魔をされても逃げ回りながら活動自体はできていたので、実力行使や人権侵害などと騒ぐレベルではない」とのことですが、その主張は私から見ると、「中国の劉暁波さんや香港の周庭さんは、収監されたりなどの弾圧を受けながらも何とか民主活動家として運動を続けることができたので、それほど酷い弾圧とは言えない」などという中国共産党擁護の主張と大して変わらないように思えます。

 

擁護その3
監視委員(左月・右月)自体は出番の少なさやチープな言動などから言って、物語において端役に過ぎないのは明らか。2ndシーズンの序盤である23章ですぐ解散したことも踏まえると、2ndシーズン全体における重要な立ち位置は担っておらず、物語を読むにあたって大騒ぎするほどの重要な要素ではない。


キャラクターの出番が少なかったり、チープに振る舞っていたりするからと言って、重要な役割を担っていないとは限らないのではないでしょうか。実際、「24章のトーナメントがフェアな勝負になっていない」とか「同好会はあれだけの事をされても「部」に歩み寄るのか」などの違和感を多くのスクスタ読者に与えている現実がある以上、監視委員を重要な要素でないと断じることはできないと考えられます。チープな言動などから一見端役のように思えても、監視委員専用の腕章の作画まで作り込まれている以上、単なる端役として描かれたとも言い切れないように思います。


そもそも、監視委員の件が23章の時点でとっくに解決している些細な問題だというのなら、29章でかすみが「まだ怒っている」と明言し、それに対してランジュがしっかり謝罪するシーンが描かれたのはなぜでしょうか? そろそろ監視委員の件は水に流そうという気持ちが、かすみの中に芽生えていたのも事実かもしれません(かすみがランジュに謝罪を迫った際、璃奈が「その辺、もういいって言ってたような……」とツッコミを入れていた)。しかしやはり、これから仲間として活動する以上は、解決しないまま有耶無耶になった過去の重大問題はしっかりとケジメをつけるべきだと考えたからこそ、かすみはランジュに対して謝罪を要求したし、ランジュもそれに応えたのではないでしょうか。

 


さて、監視委員にまつわる3つの擁護意見に対する応答を述べてきましたが、今回は擁護意見に対して疑問を投げ返すという形がメインの反論となりました。上で投げかけた疑問に対して合理的な説明を与えるということも、うまくすれば出来るかもしれません。しかし仮にそれが出来たとしても、2ndシーズンのテキストから大きく逸脱した if ストーリーを読み手が補完する必要が生じてしまうように思います。そこまで行くと、そのようにして補完されたストーリーはもはや2ndシーズンの読解ではなく、二次創作の範疇になってしまうのではないでしょうか。


ちなみに、そのような読み方が読解として許されるジャンルとしてミステリーを挙げることができますが、ラブライブ!のジャンルはミステリーではありません。ミステリーを考察するように読むのももちろん一つの楽しみ方ですし否定はしませんが、そんな極めてニッチな楽しみ方を、スクスタの読者全員に押し付けるべきではないのは明らかです。


破綻したストーリーをここまで理屈をつけて擁護しようという肯定派各位の気概だけは、純粋に敬服するものがあります。しかし残念ながら、その主張の中身は無理がありすぎるし、悪あがきにしか見えないというのが正直な印象です。2ndシーズンが完結し、ミアとランジュも同好会メンバーとして本格的に活動を開始し、インターミッションも配信され始めた今となっては、もはやこのストーリーが破綻しているか否かを議論するフェーズは既に終わっているのです。今は、ストーリーの破綻という不都合な現実を直視しつつ、これからの虹ヶ咲がこの逆境をどう乗り越えていくかを注視し、見守っていくフェーズに入っていると言うべきだと思います。

 

 


 

以下、2022.08.08 追記


スクスタ2ndシーズンの完結から1年近く経ち、3rdシーズンも完結を迎えました。3rdシーズンは2ndシーズンとは打って変わって破綻した展開も無くなり、終始『ラブライブ!』らしさをしっかりと意識して描かれた非常に良いシナリオになっていたと思います。そこで、このたびnoteを新たに立ち上げて3rdシーズンの感想と考察を肯定派の目線から書きましたので、興味がある方はご覧いただけると幸いです。→ https://note.com/hmgns/n/n43f45e1fa7c6

 

 


 

以下、2023.07.22 追記

先月末をもって、スクスタがサービスを終了しました。これを受け、メインストーリー終盤にあたる4thシーズンから6thシーズンの感想と考察をnoteに投稿しました。4thシーズン以降も3rdシーズンに引き続き、ラブライブ!らしさ、虹ヶ咲らしさがしっかり考えられた上でよく練られた良いストーリーだったと思います。また、キズナエピソードなど他のストーリーも良いものばかりでした。これだけのシナリオが書けるなら、2ndシーズンも最初からちゃんと作ってほしかったとますます思うのですが、ひとまず(2ndシーズンを除いて)スクスタで素晴らしい物語を紡いでくれたシナリオ担当者各位には感謝と労いの言葉をかけたいと思っています。

(スクスタ4thシーズン〜6thシーズンの感想記事→ https://note.com/hmgns/n/nd8730f806ca3 )